SPICY GARDEN

陶芸分科会女子......あれから30年!

カメラとの会話

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ウィ、シルブプレ、メルシーぐらいのフランス語しかわかりません。

英語以外の外国語で、話せたら素敵、ちょっとかっこいい、知的っぽいと思う外国語がフランス語です。多分に映画とファッションに影響されているようなミーハーさでお恥ずかしいかぎりです。

学生時代の第二外国語はフランス語とドイツ語の選択科目だったのだから、あの時フランス語を選んでおけばよかったと後悔するわけですが、

選んだドイツ語も実はちっとも使えるようにならなかったのだから、選択を間違えた自分を悔やむ必要はなく、

どちらかといえば、学生時代に、あまり勉強に時間を費やさなかった自分を後悔すべきなのだと考えなおすのが毎回の思考の結末です。

ならば後悔を役立てるよう何か行動をしているのかというと、語学に関しては、相変わらず何もしておらず、フランス語は「憧れ」という手の届かないところに位置づけたままで、普段は、出来るようになりたかったことすら忘れています。

 

語学に関しては行動が起きませんでしたが、家の中には「憧れ」を身近なものとして「手に入れよう」として行動した結果や形跡の残るものがあります。

憧れのオシャレを手に入れようとして買ったハイブランドのバッグとか、インスタグラマーさんに憧れて始めた手芸の本や材料、

私のものだけではなく夫のカメラなんかも転がっています。

 

あまり使われずに部屋に放置されている一眼レフカメラを見て、カメラに頼ったってプロみたいな写真なんか撮れないということかなと勝手に解釈をしていました。お安いものでないことは分かっていましたので、カメラって、男の収集癖を満たすモノの一つなんだろうと思ってみたり、いじってみて壊したりしたら大変だ、と遠巻きに眺めていました。

 

今更ですが、インスタグラムを使い始めて、夢中になり、私のiPhone6でとれる写真に飽きてきたころでしょうか、放置されている一眼レフカメラが無視できなくなってきました。

 

夫が使っていいと言うので、触ってみると、ボタンがいっぱいあって、謎の記号やら、印やらがついていて、よくわかりません。

電源スイッチでさえも、「たぶん、これだよね?」と、推測程度の私に、教える気を無くす夫。

カメラと私との間に広がる溝は大きく、飛び越えるのは絶望的に感じました。

 

教えることをあっさりと諦めた夫の勧めで、カメラ教室を探してみると、EOS学園の初心者クラスが良さそうに見えました。

 

対象レベルが、「カメラ店の店員さんのトークに乗せられて、一眼レフを買ったけど、一人ではどうにもならない。」程度の方だというのは、行ってみてから分かったことですが、自分のレベルにぴたりとはまる教室に行くことができたのは、幸いでした。

 

当日、銀座の会場には20人弱の人が集まっていました。始まってすぐに、私が一番レベルの低い人らしいと分かってしまい、内心ドキドキしながらの受講となりましたが、

流れるようにスムーズな講義と、質問のしやすい雰囲気があり、講座のほぼすべての内容についてきっちり理解できた手ごたえを感じました。

 

それまでファインダーの中には被写体しか見えなかった私ですが、覗いた先にメモリや記号があり、設定に応じてF値の調整メモリとして機能していたりすることに気が付けるようになりました。

 

すでに写真を撮っているという方でも、講師に指摘されるまでは「こんなマークあったの、気づかなかった」という印も。カメラ本体のレンズ位置のマークで、被写体との距離を把握するには重要なものでした。

 

講師から、「では、手間にモノがあるときに奥のものにピントを合わせた写真を撮ってみましょう」と課題が出たときに、私の頭の中に、どの手順でどうするかが浮かぶようになりました。浮かんだものを、カメラへ伝える。つまり操作します。今までは、出来なかったのに、この時はスッスッと操作ができるようになっていました。

 

私が脳内で考えた条件を、カメラのどこを操作すれば叶え得られるのかが分かる状態になれたということです。

思わず、「カメラと会話出来てる」という意識が沸き上がりました。

まるで、憧れとして手の届かないところに放置していたフランス語で、急にコミュニケーションが可能になったかのような驚きの感情でもありました。

 

到底自分には無理ではないかと思うような大きな目標も、長い道のりの手前に道しるべとしての小さな目標をおき、ひとつずつ達成していくことで進んでいけば、いつのまにやら手が届いていくように思います。

小さな目標の作り方として、現在持っている知識で理解することのできるレベルを正確に把握し、レベルにあった学習をすることがとても効果的なのだなと感じた出来事でした。