1.京焼以前
7世紀初めごろの窯が京都市街の北部、岩倉から発見されている。
8世紀の末期平安京の建設が始まると瓦製造で活気を呈し発展していった
平安京が完成後には官立の焼き物工養成所がつくられ、瀬戸などから来た工人が卒業したという記録が残っている。
底で焼かれるものの多くは皇室や寺院の大建築物の用品やそこに住む人々が使用するものであったと推察される
2.京焼の誕生-楽焼の世界-
楽焼は茶の湯との深い関係のもとに歩んできた
室町時代には朝鮮のほうがはるかに優れた焼き物作っており、多数の陶工が日本に招かれた。当時の朝鮮では釉薬を使う焼き物の技術を持っていた。
3.初期の京焼-「古清水」の時代-
京窯が築かれ、京焼が作られ始めたのは、安土・桃山時代ら近世
初めにかけてのことである。
京焼の初めは瀬戸などの最高技術を京都に移したものであり、元来、瀬戸などで焼かれていたものが、茶道の流行などによる需要増大に応じて、直接、需要地の京都でやかれるようになったともいえる。
様々な顔料の使用が可能になり、焼き物が多彩な色彩感にあふれた華やかさを競う時代に入る。
初期京焼を名実ともに代表するのは野々村仁清
もう一人は緒方乾山、この方は京都の人だが江戸へくだり、上野の入谷に落ち着いた
白の化粧掛けの始祖
4.後期の京焼-煎茶器の興隆-
江戸時代、お茶では煎茶趣味が隆盛をきわめた。
この時期は煎茶の流行に影響されて、中国風の時期が中心となる
和陶もこの気運に刺激されて、洗練されていった。
後期京焼の先駆けとなったのは奥田庸徳頴川(えいせん)
頴川は明から長崎に渡来し、その後京都へ上ってきた帰化人の子孫。
京焼において完全な磁器を作る技術を切り拓いた。
もう一つの大きな功績は後期京焼の名工たちを数々育て上げ世に送り出したこと。
後期京焼において、もっとも輝かしい名声を博しているのは青木木米(もくべい)
木米亡きあと、京都で随一の名工とうたわれたのは、仁阿弥道八
5.京焼の近代化
幕末から明治、海外での人気が高まり輸出が始まる
6.座談会-清水焼の未来と展望-
この本の出版が昭和47年。
日本人の生活様式が西洋化していくなか、伝統に根ざしながらも新しい生活様式にあった陶器をつくっていかなければと思案している様子がうかがえました。
感想
産地(土が取れる場所)で作られる陶器が多い中、
京焼・清水焼は本来的に都市産業という観点がある、
ということがよく理解できた本でした。
消費者に近いところ、
つまり最も美しく人気のものでなければ!
という意気込みみたいなものを感じるとともに、
その意気込みごと作陶も習得していこうと思います。